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新たなる世紀において映画は逡巡している。映画生誕より一世紀が過ぎ、実験映画も、メロドラマも、ハリウッド映画も、アート映画もすべからく逡巡している。百年前は映画は全てが新しく、なにもかもが新鮮で驚きだった。それは、歴史なきものの特権でもあったが、それ以上に新たなる文化の胎動に、文明国総出でその波を沸き立たせた時代の趨勢が作り出した、巨大で無邪気な熱病のようなものが怒濤の如く押し寄せたかの如くであった。だがしかし、もはや無尽蔵であった特権的新奇さは失せて久しい。残されたものは、じめじめとした黴臭さと、僅かな嗜好家たちの陰気なクリシェによって、失われ行く断末魔の文明(というにはあまりにも稚拙な)への単なるアルカイックとノスタルジィによって支えられた、まさしく臨終の床に伏した第七番目の芸術の姿である。前世紀半ば、テレビというポータブルなスペクタクルが撒かれだして以来、人々は映画生誕時よりも厳かに、だがそれとは比較にならないレベルで確実に人々は何者かに浸食されていく。マクルーハンはテレビを、そしてその次の次元の(今となってはインターネットといえるだろうが)メディアを称揚したが、逡巡する映画を尻目に、より一層勢力を伸ばすそれらはもはや、人々に第七番目の芸術の死を想起させることすらない。芸術のしんがりに誕生した映画はいの一番に死す!
さて、そのような状況の中でも、映画は相変わらず封切られ続けている。何百本という映画が毎年作られては消費されている。ハリウッドを中心とした現在の映画産業の流通システムにおいては、資本力と宣伝力、戦略的マーケティングなどによって、ある意味最大限にアノニマスが発現される。つまり“誰でもない映画”、である。映画というスペクタクルは、スペクタクルによって白痴化され、さらにそのスペクタクルは映画というスペクタクルを自らのスペクタクルへと飲み込み、往来を横行する。このスペクタクル的暴力は、新たなる世紀においてより一層加速度を増し、否応なく人々を侵犯する。いったいこれらの映画とは映画なのであろうか?
ここで一人の卓越した映画監督、ツァイ・ミンリャンの新作「楽日」について触れてみたい。彼の映画にはおよそ映画らしき要素は意図的にあらかた排除されている。それはこの新作においては極めて顕著で、音楽、サスペンス、ドラマは存在しない。主演の二人には一言の科白も許さず、全編でも会話は二度しか交わされない。一瞥すると、失われつつあるもののノスタルジィと、死せるものたち=幽霊ぐらいのものだけによって構成されており、スペクタクルに慣らされた殆どの人々にとってこれは“映画”ではなく、“退屈”である。これははたしてLess is more から Less is bore へ、ということなのか? そうではない。付言すればこれは、ポスト・モダニズムへの反動的ミニマリズムでもなければ、アヴァンギャルド=アートといった短絡的思考に基づくものでもない。すなわち「楽日」とは、あらゆる映画的スペクタクル性を排除していった先に現出した、きわめて“映画”そのもだけによって構築されたフィルムなのである。それはつまり、映画とは第七番目の独立した芸術であることを無言で証明している。映画≠総合芸術なのだ。“水”はその透明度を増すにつれ、“水”そのものを認識できないところへと純化される。静謐にして饒舌、フィルムに収められている全ての要素=映画はますます満ち足りて幸福である。ツァイ・ミンリャンはここで、“曾てあらぬ映画”であるところへと映画を投企(Project)する。私たちはまだ、映画によって新鮮な驚きを享受できるということに暫し言葉を喪い、しかるのち惻々と、嗚咽する。そして、喪われゆく映画の運命を彼一人に賭してみるのも一興だろうと一人ごちながら、私たちは喪われつつある映画館を後にするだろう。
相米慎二の監督処女作『翔んだカップル』は、その後20年にわたり撮り続けることとなる彼の映画を予見している。ゴダールの『勝手にしやがれ』がそうであるように、処女作がその後の何十年の作品を内包してしまっているという稀有な作家は、あまりに強烈な個性と作家性とを持ち合わせているが故に、それらはたやすく一般に受け入れられるものではない。だが、相米の処女作は、コミック原作によるアイドル映画という路線が彼の作家性を韜晦する。おそらく公開当時にその強烈な才能を理解しえた慧眼の持ち主など世界にも数人しかいなかったとはたやすく推測されよう。
さて、彼のその作家性は『台風クラブ』を経て『お引越し』によって顕わになる、と同時に相米慎二という一人の監督は決定的に相米慎二という一人の監督として決定付けられる。例えば彼の映画に必ずといっていいほど登場する雨の役割とはいったい何であろうか。過剰なまでの雨量にもかかわらず登場人物たちはたじろぐどころか傘もささずに、まるで生命を吹き込まれたかのように、文字通り水を得た魚となって踊り出す、走り出す! そして降り止まぬ雨は、カタルシスへの足掛かりとして信じられない効果を生みだす。瞠目すべきは『お引越し』にいたっては、雨の役割がさらに火へと転化され、『台風クラブ』の雨=祝祭という図式に火=儀式という図式が加わり、映画はもはや、はたしてこれは映画と総称されるうちの一つであろうかという、かろうじて映画たりうるぎりぎりの危うい領域へと彷徨い出す。これほど恐るべきことはない!